絞首刑―これが私に与えられた判決である。
いま明らかになるBC級戦犯の実相。1945年6月、西部軍主計中尉だった冬至堅太郎は、福岡大空襲で母を失った翌日、自ら志願してB29搭乗員の処刑に加わり、4人を手にかけた。敗戦後、BC級戦犯として東京・豊島区にあったスガモプリズンに収監され、その日から日記をつけ始める。死刑を覚悟していた堅太郎は内省的に自分に向き合い、「処刑した米兵にも家族が居たはず」という妻の言葉を重く受け止める。2年後、彼に宣告されたのは絞首刑だった。
監督:大村由紀子 ©RKB
絞首刑―これが私に与えられた判決である。
いま明らかになるBC級戦犯の実相。1945年6月、西部軍主計中尉だった冬至堅太郎は、福岡大空襲で母を失った翌日、自ら志願してB29搭乗員の処刑に加わり、4人を手にかけた。敗戦後、BC級戦犯として東京・豊島区にあったスガモプリズンに収監され、その日から日記をつけ始める。死刑を覚悟していた堅太郎は内省的に自分に向き合い、「処刑した米兵にも家族が居たはず」という妻の言葉を重く受け止める。2年後、彼に宣告されたのは絞首刑だった。
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監督:大村由紀子
Comment
日本の指導者らが裁かれたA級戦犯を知っている人は多くとも、現場の兵士や軍属らが戦争犯罪に問われたBC級戦犯を知る人は少ない。アジア太平洋の49法廷で裁かれ、920人もの命が絶たれたにも関わらず、ドラマ「私は貝になりたい」などで断片的にしか語られてこなかった。
法務省が収集した戦犯関係の資料や公文書が国立公文書館に移管され、公開が始まったのは25年程前だが、元戦犯と戦犯家族のプライバシーに配慮したのか、名前が黒塗りになった文書が多かった。関係者が亡くなっていることもあり、近年になってやっと黒塗りのない文書の公開も増えてきた。本格的な検証はこれからだ。戦犯死刑囚という過酷な体験をした冬至堅太郎の日記の存在が公にされたのは6年程前。堅太郎が遺した6年分の日記からはスガモプリズンの中だけでなく、塀の外の国民の姿も見える。
戦犯死刑囚として敗戦後の日本と自分に向き合った堅太郎は何を思ったのか、遺した言葉を伝えたい。
Profile
RKB毎日放送ディレクター。福岡市出身、1989年RKB毎日放送入社。10年間アナウンサーとしてクイズ番組や情報番組などを担当。2000年から報道部。記者、デスクの傍ら、ニュース取材の中から、医療、司法、戦争などをテーマにドキュメンタリー番組を制作。2008年「母は闘う~薬害肝炎訴訟原告 山口美智子の20年~」(テレビ)で文化庁芸術祭優秀賞、日本民間放送連盟賞優秀賞など受賞。2009年「知られざる更生保護の現実~社会へ帰る受刑者たち~」でギャラクシー賞奨励賞。2021年「永遠の平和を~あるBC級戦犯の遺書~」(テレビ・ラジオ)で放送文化基金賞優秀賞、石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞など。近年は公文書館に通ってBC級戦犯に関する資料の掘り起こしを続けている。JNN NEWS DIGで「あるBC級戦犯の遺書~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人になったのか」を連載。